世界救世教の教祖・明主様(1882~1955)は、明治15年12月23日、東京・浅草に骨董商の二男として生まれました。
幼少より病弱で、病苦との闘いの前半生を送りましたが、生来正義感や人を思いやる心の強い性格でした。
芸術家を志し美術学校への進学を目指したものの眼病のため断念しましたが、天性の美的感覚と優れた創意工夫の才能を発揮し、装身具店を起こし、一流百貨店に出品するまで成功を収めました。
しかし、妻子との死別、経済恐慌による破産など人生苦の辛酸を味わう中で、次第に宗教に道を求め、精神世界を探求していきました。
昭和元年、45歳を迎えたとき、神からの啓示を受け、神仏の実在をはじめ霊的世界の実相、生死の本義などの真理とともに、苦悩する人々の救済者として、また地上天国を樹立し、新たな文明を創造する実行者としての使命を覚りました。
昭和10年1月1日に、世界救世教の前身となる「大日本観音会」を設立し、勇躍、活動を開始しました。
しかし、戦前は、宗教弾圧により本格的な活動は制限され、戦争の終焉をうけて信教の自由が認められる中で、教線は急速に広がっていきました。
救済者としての明主様の偉大な力によって救われ、その教えに教化された信奉者は、明主様の構想する地上天国のひな型たる箱根・神仙郷、熱海・瑞雲郷の造営に参画していきました。また、京都・平安郷の造営構想を示しましたが、生前はその実現はかないませんでした。
明主様の救済観は、“この世界は霊界と現界から成り立っており、人間の運命の根本は霊界にある”という宇宙の基本法則に基づくものであり、人間の幸・不幸は、人間の本体である「霊魂の曇り」にあることを明らかにしました。
そして、「霊魂の曇り」の解消法として「浄霊(じょうれい)」を創始し、救いの業として普及し、苦しみや悩みの渦中にある人々を幸福な人生へと導いたのです。
さらに明主様は、新たな文明を創造するために、宗教分野だけでなく教育、医学、芸術、農業などに関わる教えを論文形式で著し、その具体化のために「自然農法」を創始すると共に「芸術活動」を推し進めました。
「自然農法」とは、本来土壌が持つ自然力を発揮させ、農薬や化学肥料を使用しないで清浄な作物をつくるものです。そして、「自然農法」によって栽培された農産物を食することで、健康な生活を送る人を広げようとしました。
また、「芸術活動」は、優れた芸術を通して、人々の心や魂の浄化をめざすものです。そのために「紅白梅図屏風」「色絵藤花文茶壺」「翰墨城」といった国宝をはじめ優れた美術品の蒐集に努め、昭和27年には箱根神仙郷内に箱根美術館を建設し、社会に公開していきました。
私は今日メシヤ教なる宗教を開き
万人を救い幸福なる世界を造らんと努力しつつある。(中略)
最後の目標は新しい文明の創造であって、
新文明とはわかりやすくいえば、宗教を土台とした精神文明で
つまり物質文明に対する宗教文明の大飛躍である。
不幸を生んでいる物質文明を、幸福を生む宗教文明に置き換えることである。
進歩した物質文明を最高度に利用するところの、
力ある宗教を押し樹てることである。悪の文明を善の文明に代えてしまうのである。
これが成功の暁、この世界は真善美完き黄金時代となり、
想像もつかないほどの、天国的世界が出現するのである。
(「宗教文明時代」昭和26年)