重要文化財

山月庵

 

山月庵は昭和25年(1950) 7月に建造されました。明主様は、いずれ日本の文化や日本独特の建築美を世界に紹介しなければならない日が必ず来ると考えられ、建造後は各界の有識者を招待し、日本の伝統文化である「茶の湯」の美を広く伝えられました。

数寄屋大工の第3代木村清兵衛が建造にあたり、構成は丸炉を備えた寄附、八畳広問、三畳中板の小間が露地庭に面して雁行し、外観は柿葺きの宝形屋根(広間)、茅葺き・入母屋屋根の草庵風茶室(小間)がそれぞれの個性を醸し出しています。苑内には複数の腰掛け待合や門が点在しており、全体として視覚的に変化に富んだ構成となっています。

当時の意匠の極めて良く保存されていることから、令和6年3月に国の登録有形文化財(建造物)に指定されました。

日光殿

 

日光殿は日本の伝統芸能や演芸の上演を目的に設計され、昭和24年(1949)5月に建造されました。明主様は、南側の芝生地に仮設の舞台を設置されて、芸能を鑑賞されることもありました。

設計は数寄屋建築を独自に近代化した建築家として知られる吉田五十八氏によるものです。神仙郷の南東(斜面下部)に位置している日光殿は、東側の約3割が地階と1階の2層から成り、西側の約7割が1層となっています。神仙郷の中で最も大きな建造物ですが、重心が低く安定感もあるため、南側の植栽の少ない平坦な芝庭から日光殿を見る際には、威圧感等を一切感じさせず、西側の石楽園や観山亭等からの景観についても、立地や建造物の形態により庭景の阻害要因とならないよう配慮がされています。

現代に残る貴重な近代和風建築として、令和6年3月に国の登録有形文化財(建造物)に指定されました。

箱根美術館本館・別館・休憩所

 

本館及び休憩所は昭和27年(1952)6月、別館は昭和28年(1953)5月に建造されました。

戦後の混乱期に疲弊し、自信を失った多くの人を魂から憩わせ、幸せに導くことを願われた明主様が、自ら蒐集した日本の美術品を一般向けに公開した美術館であり、ご在世中に神仙郷に建設した最後の建築群でもあります。

3館とも設計は建物本体から内装、展示ケースに至るまで、すべて明主様によるものです。東洋風を意識した外観意匠、掛け軸や絵巻物、陶磁器などの工芸品といった多様な形態の日本美術品のための展示ケースも、明主様自身が展示品の特性を考慮して考案されました。

本館は、敷地の最高所という立地を活かして、風光明婦な箱根の景観を望めるよう設計された。特に2階のロビーと3階の日本聞には大きな窓が設置されており、1枚の絵画のように窓外の風景を観賞することができます。また、日本の美術品を鑑賞するには畳の部屋が最も適しているという考え方の下に、3階の日本間の建造にも力を注がれました。

建造当時から現在まで構造に大きな変化はなく、当初の姿を良くとどめ、また3館に共通して美術館の設立意図を表現したものとして価値が高いと評価され、令和6年3月に国の登録有形文化財(建造物)に指定されました。

「神仙郷」 名勝

 神仙郷は、第二次世界大戦中から戦後にかけて、教祖・明主様が箱根強羅地域の自然環境の特質を巧みに生かしつつ理想郷として作庭したもので、昭和28年(1953)に完成しました。

庭園は、表門から日光殿へと至る導入部、日光殿の南側の芝庭、その北端の池泉から高所に向かうと神山荘(国の登録有形文化財)、また、観山亭があり、その周辺の築山、渓流、瀧、園路、さらには茶室・山月庵と茶庭、そして、竹庭、苔庭、萩の家などがあります。

その意匠、構成は独特かつ良好に維持されており、近代造園文化に寄与する意義深いものとして評価され、平成25年8月に国の登録記念物として指定され、令和3年3月には国の名勝に指定されました。

「神山荘」 登録有形文化財(建造物)

 神山荘は、大正10年頃に、戦前に財界で活躍した実業家・藤山雷太氏の箱根別邸として建築されました。

その後、世界救世教が譲り受け、背後にある箱根山最高峰の「神山」にちなみ、教祖・明主様は「神山荘」と命名しました。

神山荘は、木造平屋建てで、傾斜地の地形を巧みに利用して建物が配置されている所に特徴があります。床の間の脇に設けられた洞床風の襖を開けると自然石をそのままくり抜いた石階段や、接客用の「上の間」は敷地の一番高い所に置かれることで、風光明媚な箱根の景観を一望することができます。

玄関左手は数寄屋造りの味わいを感じられる一方で、右手に建てられた食堂と応接室はログハウス調の外観で山荘に近いイメージも合わせ持っています。

明主様は「神山荘」を入手した後、住まいを東京の玉川から箱根に移し、しばらく生活の場としました。神山荘の「上の間」では信徒と面会したり、応接室では有識者を招いて懇談をしたり、また、機関誌を通して発表される論文の執筆もしています。

平成13年(2001年)には、財界人の別荘建築の遺構を辿る上で貴重な建築物と評価され、国の登録有形文化財(建造物)に指定されました。

現在は、信徒の研鑽の場として活用される一方、文化施設として一般にも公開されています。

「東山荘」 登録有形文化財(建造物)

 東山荘は、昭和8年、第一銀行頭取であった石井健吾氏の別邸として建築されました。

その後、所有者が山下汽船(現・商船三井)の創業者山下亀三郎氏に移り、昭和19年に世界救世教が譲り受けました。

別荘が建てられている熱海市・旧東山(現春日町)の地名を取って、教祖・明主様は「東山荘」と命名しました。

東山荘には、創建当時のまま現存する本館をはじめ、後に山下氏が政財界の交流の場や国賓の迎賓館として手掛けた別館や茶室、明主様が美による人心教化を目的とした美術館構想実現(後のMOA美術館)の為に収集した美術品を保管するための蔵、また東山が望む相模湾の海原を活かした借景庭園などがあります。

明主様は、「東山荘」と前年に取得した箱根「神山荘」をしばらく住まいとして、秋から春にかけては「東山荘」で過ごしました。

本館を主に生活の場とする一方、別館は信徒との面会や、論文の執筆などに用いて、時折、奉仕者とともに映画を楽しむ場ともなりました。

現在は、信徒の研鑽の場として活用される一方、一般公開を視野に入れて準備が進められています。

平成28年(2016年)に、昭和初期から今日までの歴史を孕んだ近代和風の別荘建築として貴重であると評価され、国の登録有形文化財(建造物)に指定されました。

「陽明館」 登録有形文化財(建造物)

 陽明館は、昭和14年に建築され、製紙事業の拡大で財閥を築いた大川財閥の別荘だったと推察されています。

その後、昭和33年に世界救世教が取得し、「陽明館」と名付けています。

陽明館は、瓦葺木造2階建てで、相模湾が望める南側の上下階にそれぞれに大きなガラス窓が配された開放的な造りが特徴です。丸太や面皮を多用して細部が数寄屋風に仕上げられる一方、玄関脇には小上がりを配した洋室を設けるなど和洋折衷の造りとなっています。

東海道熱海線の敷設を契機に、大正の終わりごろから昭和初期にかけて別荘建築群の建築が盛んとなり、その造りは和風建築を基本としながらも洋室を備えている点が特色と言われています。

陽明館は、教祖・明主様の跡を継いだ二代教主の公務、迎賓館などとして使われていました。現在は建物の特性を生かして、茶席やいけばな展の催しなどに活用される一方、一般公開を視野に入れて準備が進められています。

平成30年(2018年)に、現存する別荘建築群の中でも、昭和初期に建築されたことが明らかな遺構として希少であると評価され、国の登録有形文化財(建造物)に指定されました。